日蓮宗総本山 身延山久遠寺 | 宗祖棲神の霊地

身延山久遠寺 本堂

日蓮宗 総本山 身延山久遠寺

身延山久遠寺

【所在地】〒409-2593 山梨県南巨摩郡身延町身延3567

日蓮宗の総本山は、身延山久遠寺です。

身延山の歴史は、日蓮聖人が波木井の領主南部実長公から招きがあって身延山に赴くことに始まります。文永11年(1274)3月26日に佐渡流罪を放免されて鎌倉へと戻ります。そして、同年4月8日に再度幕府に対して諫暁を行いましたが、受け入れられなかったため、「3度諌むるに用いずは山林に交わるべし」との故事に従い、身延山へと赴きます。

その後、9年にわたりこの身延の地にて法華経読誦・門弟訓育に終始されます。体調を崩された日蓮聖人は、弘安5年(1282)に身延山を下山し、常陸へと湯治に向かう途中に病状が悪化し、同年10月13日、現在の東京都大田区池上の地、檀越・池上宗仲公の館(現本山大坊本行寺)において61年のご生涯を閉じられます。

「いづくにて死に候とも墓をばみのぶ澤にせさせ候べく候」(波木井殿御法)の遺言に従い、日蓮聖人御入滅の後、身延山に御遺骨は納められました。

現在ご廟所がある西谷の地が、かつて日蓮聖人がご草庵を結ばれた中心的な場所でありましたが、文明7年(1475)、身延山久遠寺第11世日朝上人の代に、西谷から現在地へと堂宇が移りました。

ついこの前までは全く気にはなりませんでしたが、この「文明」という年号は大変気になる年号となります。当山の祖師像に明記されていた年号が「文明」です。時代では室町時代に該当いたします。私が学校で歴史を習っていた時は「応仁の乱」と呼ばれていましたが、現在では「応仁・文明の乱」と呼称されるようです。少し話はそれてしまいましたが、身延山の中心地がかつて西谷であってものが、室町時代の文明の頃に現在地へと移動したこととなります。

日蓮聖人御廟所
身延山久遠寺祖師堂
身延山久遠寺三門
身延山久遠寺菩提梯

さて、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺は、本覚寺開山加藤雲洞上人とも大変ご縁のあるお寺です。

祖父雲洞上人は、祖山学院にて学びます。その後、身延山久遠寺に奉職、祖山学院の教師や信行道場の訓育主任としても活躍いたしました。また、書家として身延山久遠寺内に雲洞書院という書道教室を開き、当時の近隣の方々が祖父に書を習っていたということは今でも伝え聞いております。さらに、身延山久遠寺杉田日布法主や、清水房・内野日運上人とも大変ご縁があったようです。内野日運上人は、思親閣別当を35年にわたり勤められ、思親閣の整備に丹精されました。丁度この時期に祖父も身延山久遠寺におり、おそらくそのご縁にて久遠寺内や思親閣の様々なものの書をしたためていると思います。

現在でも身延山久遠寺に参詣すれば祖父の字を境内のあちこちで目にすることができます。このため、身延山久遠寺は、宗祖棲神の総本山であるだけでなく、当山にとっても開山雲洞上人の足跡が残された心の拠り所となる寺院であります。

身延山久遠寺内

-本覚寺第1世 加藤雲洞上人書-

日蓮宗 松戸 本覚寺