本覚寺の歴史について

本覚寺の縁起は、元禄12年(1699)まで遡ります。本化の宗風を慕う信徒によって一庵が建立され本覚庵と称しました。下図は、文化3年に描かれた『五街道分間延絵図会津道多功道(上本郷村)』 の街道図であり、当山の前身本覚庵が「釈迦堂」として記されています。

文化3年(1806年) 五街道分間延絵図会津道多功道
文化3年(1806年) 五街道分間延絵図会津道多功道
五街道分間延絵図会津道多功道(拡大図)
五街道分間延絵図会津道多功道(拡大図)

その後、本覚庵は住職不在のまま辛くも維持されてきたものの、熱心な信徒や縁故者の渇望により、昭和17年3月25日、日蓮宗総本山身延山久遠寺の加藤錬明(号:雲洞)上人を開山として全中山本覚寺の寺号を公称いたしました。

昭和43年、現住職である加藤雅章(号:瑞雲)が当山第3世の法灯を継承し、平成5年、老朽化した本堂・客殿・庫裡を新築・落慶し、現在に至っております。

上記の写真は、1991年11月17日に本覚寺檀家さんの岡田三次郎さんが、東京国立博物館資料部で入手したものです。この写真の裏書きには、次のような説明が記載されていました。この資料を入手する経緯は、本覚寺に隣接する西山稲荷大明神が、徳川光圀公とゆかりがあるのではという仮説検証に起因いたします。徳川光圀公が江戸城に向かう途中に、この地を訪れ、お稲荷様を建立するようにと伝承されてきたそうです。この伝承を裏付けるため、国会図書館、千葉県立中央図書館、そして東京国立博物館共同資料部を訪ね、この資料を入手したそうです。

本覚寺奉告文

昭和17年11月20日に書かれた奉告文には、本覚寺がお寺となった経緯が次のように書かれています。

本覚寺奉告文
本覚寺奉告文

奉告文

南無平等大會一乗妙法蓮華経 南無久遠實成大恩教主釈迦牟尼如来 南無末法唱導の上首 勅諡(ちょくし)立正大師高祖日蓮大菩薩等 本化別頭の三寶 殊には宗廟の諸神法華経擁護の諸天善神等 大慈大悲知見照鑑の御寶前に於て 南部日實猊下を始め有縁能所各聖彦の列席を乞ひ 一乗圓頓の法莚を開き 醍醐真實の妙典を諷誦し 以て全中山本覚寺寺號公称並に拙納日壽入寺奉告の式典に擬し奉る。

惟るに当山に今を距てること242年元禄12年の頃、本化の宗風を欽慕せる信徒数十輩相計り相議し、一宇を創建して本覚庵と称し、以て同信同行の道場となし、尓来(=爾来)連綿今日に至る。然るに時運此に革(あらたま)り、先年制定實施せられたる宗教団体法は無跡無所属堂宇の存立を許さず、依て有縁信徒と相計り、縣社寺課に其の籍を有せるを便りに、宗務院及び官廳(=官庁)に申請し、本覚寺と改称し其の允許を得、本日寺號公称の創住として入寺の式を挙ぐ。時局下寺観の整備等は総て他日を待たざるべからず。仰ぎ希くは、別頭の三寶護法の善神慈愍照艦、創建以来丹精應援信徒の精霊随喜冥護して伽藍其の整を加え、寺檀和融随喜の信男女異体同心令法久住して、立正安国の祖願を成辯し、以て諸有の鴻恩に報はしめ給はんことを。

南無妙法蓮華経

維時 昭和17年11月20日

全中山本覚寺第1世 ◯(禾偏に土)多日壽

稽首和南

本覚寺客殿にある奉告文を一部加藤智章加筆修正

下記の写真は、昭和10年代に撮られた写真で、まだ本覚寺と寺号を公称する以前の本覚庵の姿です。

本覚寺古い写真(昭和10年代頃)

本堂改築前の古い写真(昭和63年)

本覚寺客殿(昭和63年)
本覚寺客殿(昭和63年)
本覚寺本堂脇(昭和63年)
本覚寺本堂脇(昭和63年)
本覚寺階段(昭和63年)
本覚寺階段(昭和63年)
本覚寺本堂(昭和63年)
本覚寺本堂(昭和63年)
本覚寺本堂(昭和63年)
本覚寺本堂(昭和63年)
本覚寺客殿(昭和63年)
本覚寺客殿(昭和63年)