平成29年9月12日 事務日誌

龍口法難会

本日は龍口法難会です。といっても、お寺にて何か行事をするわけではなく、朝勤の時に龍口法難会の回向をするのみです。

今日の予定は自動車の下取り査定が1件。他には特にありません。

といっても休みわけにもいかず、本覚寺と海徳寺の会計を今日中にきちんとしたいと思っています。

7:00

本覚寺本堂において朝勤です。今日の日蓮聖人の御妙判は『妙法尼御前御返事』でした。

日蓮幼少の時より佛法を学び候いしが、念願すらく、人の壽命は無常なり。出る気は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬にあらず。賢きも愚なきも、老たるも若きも、定め無き習いなり。されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし。

日蓮聖人御遺文『妙法尼御前御返事』

妙法尼御前御返事

妙法尼御前御返事

8:00

まずは海徳寺の事務作業です。法事の記録を整理するとともに、会計処理を行いました。

13:00

自動車の下取り査定の業者さんがお越しになりました。

海徳寺名義の車が1台あるのですが、今月で車検が切れます。本来はお寺にいる山務員の方が利用できるようにと購入したのですが、ほとんど乗ることがありませんでした。そこで査定をお願いし、下取りをするように段取りをつけました。

15:00

郵便局ならびに銀行等の金融機関へと向かいました。地元の金融機関に行くと檀家さんと偶然遭遇し、今度の彼岸会のことなどを話しました。

16:00

引き続き会計処理です。パソコンと向き合いながら、海徳寺と本覚寺の両方の会計処理を行いました。

ある程度パソコンを使いこなせるのであまり苦にはならないのですが、パソコンが苦手だと結構大変な作業に感じるはずです。税理士さんから、入ったものと出ていったものをきちんと記帳していれば問題ないとの言葉に従い、随時入力を行っています。

今日のように予定が何もない日こそ、デスクワークに最適な日なのかもしれません。

龍口法難会

そろそろお寺の仕事を切り上げようかと準備していたところ、組寺のお坊さんより龍口法難会の模様を写真で送ってくれました。

丁度一週間前に藤沢の本山龍口寺へと参拝させていただいたのですが、今日が正当の龍口法難会。ですが、実際には深夜から明け方にかけてとなりますが、遅いと人があまり来ないということで、このところは龍口寺の行事も少し早めて行っているということを聞きました。

せっかくの機会なので、以下に龍口法難会について、青山社編集部編『日蓮宗仏事故事便覧』のpp.

219-222を引用いたします。

龍口法難会

宗祖が鎌倉龍ノ口で遭った法難に因んで行われる法要。四大法難の中でも、あわや斬首の極刑に遭わんとした最も劇的な法難である。

文永八年(1271)は、聖人が『立正安国論』を著してから十一年を経ていたが、日本は蒙古襲来が懸念され、また大旱魃など不安な世相は、まさに聖人が同書で警告した「他国侵逼・自界叛逆」等の諸難を物語るものだった。しかし聖人の「邪法を捨て、正法に帰すべし」との激しい批判は、他宗の恨みを増大した。

この年の六月、日照りが続き、極楽寺(真言律宗)の忍性良観は雨乞いを命じられた。その時、「祈祷により雨を降らすことができるなら貴僧の弟子になりましょう」と、聖人は良観に書状を送られた。しかし懸命な祈祷も虚しい結果に終わった良観は、そのため聖人を激しく憎むところとなり、これに同情した行敏、念阿らと共に、聖人と弟子たちを極めて危険な存在であるとして幕府に訴えた。

九月十二日、聖人は讒言(ざんげん)により幕府に捕らえられ、身柄は佐渡の領主北条宣時邸に移された。表向きは佐渡流罪という評定であったが、実は斬首ということが内々に決められていた。

その夜、聖人を馬に乗せた一行は、北条邸を出て、若宮小路より鶴岡八幡宮の前を通った。その時、聖人は自ら馬を下りて、「いかに八幡菩薩はまことの神か」と大音声を発して、法華経守護の神であるはずの八幡菩薩が、このように何もしないからには、教主釈尊にいいつけるぞ、とその怠慢を責められた。

聖人はまた、熊王という童子を使いとして四条金吾の家に走らせた。金吾はすぐにやってきて、聖人に殉ずる覚悟でついて来た。

妙純寺では、九月十二日に龍口法難会(ぼたもち供養)が行われ、また十月十三日の御会式には星祭りが行われる。

龍ノ口の刑場へと進み、いよいよ斬首という翌十三日の丑の刻(午前二時頃)、処刑の座に捉えられたが、突如として光り物が飛来し、役人たちは恐れをなして、斬首の刑を取りやめた。夜が明けて依智の本間邸へ移送された時、執権時宗より「殺してはならぬ」という命令が届けられ、佐渡流罪ということに決まった。この法難では弟子や信者も捕らえられ、聖人のもとを去る者も多かった。

この刑場跡に建立されたのが龍口寺(藤沢市片瀬)で、寺伝によれば、聖人入滅後、直弟子日法上人が延元二年(一三三七)、草庵を建て、祖師像を彫って安置したことに始まるという。

同寺では、毎年九月十一日より十三日を龍口法難会として、厳粛で盛大な法要が営まれる。特に十二日の暮れ時から十三日の明け方にかけて、参詣者は引きも切らず参集し、万灯練り供養が行われ、当地最大の賑わいを見せる。

同寺の行事案内によれば、十二日の夜六時と十三日午前零時の大法要には、日蓮聖人が龍ノ口へ連行される途中、鎌倉んの桟敷尼が聖人にぼた餅を献上したという故事に因んで、堂内で参詣者すべてにゆきわたるほどの牡丹餅が撒かれる。この牡丹餅は昔ながらの作法そのままに、講中が題目を唱えながら手作りするもので、「難除け牡丹餅」と呼ばれ、これを拾って家に持ち帰り食べると、年中、あらゆる災難を免れるご利益があるといわれる。

また龍口法難の翌日、佐渡流罪と決まって出立までしばらく滞在された地、本間六郎左衛門重連公の館は、今の明星山妙純寺(厚木市金田)であり、当山は「星下りの霊跡」として知られる。すなわち聖人が十三日の名月を眺め、月天子に、このような大難にあって何の兆しもないのはおかしくはないかと問い質したところ、

「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども皆、縁よりとびおり、或いは大庭にひれふし、或いは家のうしろへ逃げぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて、江ノ島のなるとて空のひびく事、大なる鼓を打つがごとし」(種々御振舞御書・960)という奇瑞が生じた。

龍口法難会

龍口法難会

龍口法難会

龍口法難会

さてもさても去ぬる十二日の難のとき、貴辺龍口までつれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ。日蓮、過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所、いくそばくかありけん。或いは山にすて、海にすて、或いは河、或いは磯等、路のほとりか。然れども法華経のゆえ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。成仏のためならざれば、捨てし海河も仏土にあらざるか。今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪は龍口。相州の龍口こそ日蓮が命を捨てたる処なれ。

日蓮聖人御遺文『四条金吾殿御消息』

日蓮宗 松戸 本覚寺