鎌倉本山巡り
本日は特に予定も立てずに気が向くままと思っていました。
とりあえず箱根に来たからには大涌谷に行こうということで車で移動しました。
そこでふと鎌倉の日蓮宗寺院に行ってみたいなという話になり、午後からは鎌倉の日蓮宗寺院をお参りいたしました。
本山龍口寺
まずお参りしたお寺は、龍口法難で有名な本山龍口寺です。
龍口法難会の準備を進めているところのようで、山務院の方々も本堂内で慌ただしく準備をしていました。
日蓮宗新聞社発行『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねてー日蓮宗本山めぐりー』p.30-p.33を参照すると、龍口寺の説明は以下の通りです。
龍ノ口は鎌倉のはずれにあって、今でこそ江の島を眼前にする観光地の一角を占めているが、かつては刑場(その跡あり)のあった所である。
文永8年(1271)6月、鎌倉は大干ばつに見舞われ、日蓮聖人は極楽寺良観房(忍性)との雨乞い祈祷比べを行うことになった。聖人はこれに勝ったが、同年9月10日に評定所に呼び出され、詰問された。12日、『立正安国論』を幕府へ提出(第1国諌)。そして同日夕方、以前に松葉ヶ谷の草庵を急襲した平左衛門尉頼綱らに捕らえられた。
聖人はこのとき評定所で「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことにひとしい。百日のうちに自界叛逆(同士討ち)と他国侵逼(外国に侵略され殺害されること)の難が起こるであろう」と逆に諌めた(第2国諌)。この結果、聖人には佐渡流罪が決定し、依智(神奈川県厚木市)にある本間邸へ送られることとなった。しかし内密には処刑が企てられており、聖人は同日夜半、秘かに龍ノ口へ護送された。
まさに頸を切られようとしたとき、江の島の方から巨大な光りものが出現、この奇跡に役人たちは畏れおののき、聖人は斬首を免れた。
龍口寺縁起
延元2年(1337)9月、日法上人(中老僧)が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自身で彫刻した祖師像を安置したのが始まりという。慶長6年(1601)10月、大本堂建立。片瀬・腰越の龍口八ケ寺の輪番制であったが、明治19年、太政官布達で貫首制が定められた。山門・五重塔・大書院・仁王門・仏舎利塔など、近現代の復興は目ざましい。
龍口寺現況
法難ゆかりの龍ノ口刑場跡・御霊窟があり、大本堂(敷皮堂)、信州松代にあった養蚕御殿を関東大震災後に移築した大書院、元治元年(1864)に大阪雲雷寺の発願で豪商鹿島屋某が寄進の山門、明治43年建立の五重塔(県内唯一の名塔)等が建つ。大本堂の祖師堂は池上本門寺・比企谷妙本寺と共に一木三体の御尊像として知られる。
常立寺
龍口寺に続いてお参りしたお寺は常立寺です。モンゴルとご縁があるお寺というのようでしたが、詳細は後日調べたいと思います。
境内が手入れが行き届いたとても気分が清々しくなるお寺でした。
常立寺についてインターネットにて調べたところ、このwikipediaが最も詳しいようです。以下そちらから引用いたします。
常立寺(じょうりゅうじ)は神奈川県藤沢市片瀬に建つ日蓮宗の寺。山号は龍口山。北条時宗の命により処刑された杜世忠ら元国使の塚がある事で知られる。また枝垂れ梅の名所としても知られ、梅がほころぶ初春には多くの観光客が訪れる。旧本山は身延山久遠寺。潮師法縁。
常立寺歴史
龍口には罪人の処刑場があったが、場所については諸説あり、処刑場は龍口寺の入口西側、埋葬地は常立寺、すばな通り中央付近の西側などの説がある。
第一の元寇である文永の役の翌年、文永12年(1275年)4月15日長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸し、高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名も建治元年(1275年)9月7日処刑されこの地に葬られた。
処刑された者たちを弔うため「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる龍口寺の隣接地に埋葬され、「面影塚(おもかげづか)」を作り供養塔を立てた。ここに真言宗の回向院利生寺と称した寺が創建されたのが常立寺のもとである。
その後利生寺は享禄5年(1532年)に妙光山法華寺(現円融寺)7世日豪により日蓮宗へと改宗し常立寺と改称した。当初は法華寺の末寺であったが元禄11年(1698年)身延山久遠寺の末寺となる。
改宗後は周辺の日蓮宗の寺7ヶ寺と共に輪番で龍口寺の住職を務めていたが(片瀬八ヶ寺)、龍口寺に住職が置かれるようになった1886年(明治)19年以降は輪番制度はなくなり、本寺の運営に専念するようになった。
2005年(平成17年)4月7日、朝青龍や白鵬らモンゴル出身の幕内・十両力士らが元使塚を参拝。モンゴルで青い布(青はモンゴルで英雄を意味する色)を五輪塔に巻き、元使を弔った。その後も毎年、藤沢で巡業の際にモンゴル出身力士による元使塚参拝が行われるようになり、五輪塔には常に青い布が巻かれるようになった。2007年(平成19年)3月1日にはモンゴル国大統領、ナンバリーン・エンフバヤル夫妻が元使塚を参拝した。
本山 妙本寺
比企谷の本山妙本寺にも足を運びました。
数年前に受けた日蓮宗の甲種試験の際に、この妙本寺を初めとする本山についてもかなり勉強をいたしました。宗門史、すなわち日蓮宗の歴史についての講義では、門流という日蓮宗の派閥(流れ)が試験で必ず出ました。その際に真っ先に出てくる門流が、比企谷妙本寺を中心とする比企谷門流です。
まず本堂にお参りした後に祖師堂へと。こちらのお寺もとても境内が整備され、その荘厳さに驚きました。日蓮宗の歴史を知る上では、決して欠かすことができない本山であるなと感じました。
以下の記述は、日蓮宗新聞社発行『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねてー日蓮宗本山めぐりー』p.22-p.25を出典といたします。
妙本寺は、日蓮聖人御自ら開かれた、最初の法華堂に始まる。弟子の日朗上人はその後を継いで妙本寺の基礎を固め、鎌倉を中心に各地に教えを弘めた。七百有余年の歴史を物語るように、鎌倉市街からほど近くにありながら、境内は静寂なたたずまいを見せる
妙本寺縁起
比企谷と呼ばれる谷戸の奥には、新釈迦堂という寺があり、多くの僧が往来していた。山際には、有力御家人の比企一族の館があり、後に北条氏によってこの一族が滅ぼされたとき、ただ一人残された比企能本(大学三郎とも称す)は、日蓮聖人の信者となった。能本は文才にすぐれ、儒者として知られていた。文応元年(1260)、能本はこの地に法華堂を建立して聖人に捧げ、その後、この堂を拠点にして鎌倉を舞台とする伝道活動が進められた。
法華堂が妙本寺という寺号になったのは、佐渡に配流されていた日蓮聖人が赦されて鎌倉に帰還された文永11年(1274)のことである。寺号の「妙本」は能本の母の法名に、「長興」の山号は父の法名によってつけられたと伝える。
日蓮聖人は、ほどなく鎌倉を去って身延山に隠棲され、その留守を日朗上人が預かり、法華経の伝道につくされた。
妙本寺現況
比企谷の名さながらに、緑に包まれた深い谷奥に大伽藍が点在している。総門をくぐって参道を進むと、二天門の奥に祖師堂があり、鎌倉時代造立の日蓮聖人木像が祀られる。この木像は、日法上人作の一木三体(同木から三体を刻む)の像で、聖人の壮年期のお姿を現し、聖人ご在世中に謹刻、御自ら開眼されたことから「寿像の祖師」と称されている。
霊宝殿には、日蓮聖人から日朗上人に授与され、ご入滅の折に掲げられた「臨滅度時本尊」と呼ばれるご本尊、新釈迦堂のご本尊であった釈迦如来立像等を安置する。本堂に安置する釈迦如来坐像は室町時代初期の作である。また杉木立の美しい境内には、蛇苦止堂、新釈迦堂跡、将軍頼家の子一幡の袖塚、比企一族の墓所などの旧跡があり、多くの人々を魅了してやまない。
本山 本覚寺
本山妙本寺の目の前に本山本覚寺はありました。
同じ『本覚寺』という寺号の為、以前よりお参りしてみたいなと思っていたお寺が鎌倉駅前の本山本覚寺です。
駅に近く、お寺の周りに銀行やデパートがあることにまず驚きました。生活圏内という印象を強く受け、お参りされている方々もいましたが、駅に行く途中に参道を通っているであろう方々も大勢おられました。
さすが本山と思えるような伽藍でありました。有名な夷堂にもお参りすることができました。
本山本覚寺も日蓮宗新聞社発行『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねてー日蓮宗本山めぐりー』に掲載されております。その記述を引用したものが以下となります。
日蓮聖人が佐渡流罪を赦免されて鎌倉へ戻った折、身延山へ出立するまでの40数日間滞在された由緒寺院である。JR横須賀線の鎌倉駅に近く「日朝さま」と親しまれている。
文永11年(1274)3月13日、聖人らは佐渡一谷を出立、真浦から乗船、寺泊港を目指したが流され、柏崎に漂着した。陸路、越後・国府・善光寺を経て3月26日に鎌倉に到着した。滞在されたのは鎌倉初期からある由緒深い夷堂という。源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、守護神を各方面に祀ったが、その一つがこの夷堂であり、当山の前身である。
蒙古襲来の気配のなか、聖人の他国侵逼難の予言的中を重くみた幕府は、4月8日、聖人を評定所に召喚。龍口法難・佐渡流罪の中心的人物であった平左衛門尉頼綱と対面した聖人は、第三の国諌をされたがまたしても聞き入られなかったため「三度諌むるに用いずは山林に交われ」との故事に従い、5月12日に鎌倉を出立、身延へと向かわれた。
本覚寺 縁起
創立は永享8年(1436)。身延門流の日出上人は伊豆の三島開教の後、同年に鎌倉の天台宗宝戒寺心海と法論して勝った(永享問答)。しかし、ときの鎌倉御所足利持氏の怒りをかい法難の危機に瀕したが、逆に帰依を得て当地を拝領、本覚寺を創建した。2世日朝上人は寛正2年(1461)に身延山11世となって祖山を大復興。当山に日蓮聖人のご分骨を泰安、以来「東身延」と称されるようになった。日朝上人は眼病救護の請願を立てられたので、後に霊験あらたかな「日朝さま」と呼ばれ、信仰を集めるようになった。江戸時代には当山の眼病救護の霊験にちなむ歌舞伎『お静礼三』が河竹黙阿弥によって作られた。文久2年(1862)に諸堂焼失したが復興して現在に至る。
本覚寺 現況
古堂は江戸時代の仁王門。本堂は大正時代を代表する大堂(同12年落成)。ご分骨堂・客殿および庫裡等がある。開山日出上人の法論勝利品である、もと木更津八幡宮の応永17年(1410)銘の梵鐘は鎌倉市の文化財。
日蓮聖人辻説法跡
日蓮聖人の辻説法跡にもお参りいたしました。
平日にも関わらず、この日も鶴岡八幡宮には大勢の観光客で賑わっていました。鶴岡八幡宮の正面の道路が現在ではメインストリートとなっておりますが、日蓮聖人がかつてこの地に説法された当時では、こちらの通りがメインストリートであったと。現在では車の行き来することが難しい細い道路ですが、メインストリートであったからこそ、この細い道路に面した場所が日蓮聖人辻説法跡であることがよくわかりました。
日蓮上人は建長5年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。