はじめに
私ごとですが、先日47歳の誕生日を迎えました。
この年になると「今年何歳だっけ?」と自分の年齢すらおぼろげになっております。お祝いの言葉はもちろん嬉しいのですが、母親が亡くなってからは、誕生日は母親がお腹を痛めてくれた日だなと思うようになりました。
47歳となった今年の自分の誕生日もそんな感じで母親のことを考えていました。そして、ふと「自分の誕生日に何をしたら母親は喜んでくれるだろうか?」との問いが浮かんできました。
母親はとても信仰熱心な人でした。もともとは一般家庭の生まれですが、寺に嫁いだ後、子育てが一段落してから僧侶の道を志し、頭を剃髪して信行道場に。
そんな信仰熱心な母親でした。なので、「身延山に行って母親の回向してもらえばきっと喜んでくれるだろう」。
以上のような自問自答をへて、今年の誕生日は身延山久遠寺に行きました。
身延山久遠寺朝勤
久しぶりの身延山久遠寺の朝勤です。受付に向かう前に、仏殿前にある祖父が書いた御遺文が目に入りました。まさに今日にピッタリな御遺文でした。
親は十人の子をば養へども 子は一人の母を養ふことなし
日蓮聖人御遺文『刑部左衛門尉女房御返事』
コロナ禍となり、本山朝勤のお経にも変化が。これまでは一部経を適宜区切って読んでいたので、「今日はどこかな?」と確認してから本堂に向かいましたが、この日読んだお経は、方便品、自我偈、神力偈でした。
朝勤後、豊田布教部長さんによる法話が。5月17日は日蓮聖人が身延山久遠寺に入山された日だというお話に。すっかり忘れていましたが、祖父が書いた身延山総門の逢嶋之遺蹟には、以下の文章があったことを思い出しました。
日蓮大聖人御書
時に五十三。同五月十二日かまくらを立て甲斐國へ分入る。路次のいぶせき峯に登れば日月をいただくが如し、谷に下れば穴に入が如し。河たけくして舩渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭して縄の如し、草木しげりえて路みえず。かかる所へ尋入事浅からざる宿習也。かかる道なれども釈迦仏は手をひき、帝釋は馬となり、梵天は身に立そひ、日月は眼に入かはらせ給故にや。同十七日甲斐國波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に對面有しかば大に悦び、今生は實長が身に及程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へと契りし事はただごととも覺えず。偏に慈父慈母の波木井殿の身に入かはり日蓮をば哀れみ給歟。
日蓮聖人御遺文『波木井殿御書』
信行道場
本山朝勤にて母親の回向をして頂いた後、信行道場へと向かいました。
4月中旬から開設されている信行道場では、縁深い方々が先生として指導にあたっていました。
そもそも信行道場は祖父がその創設に携わり、一番最初の訓育主任が祖父であったと。今回訓育主任されているお上人は、祖父にとっては孫弟子にあたる方。35日の間に機会があれば行きたいなと思っていたら、5月19日には修了となり、残りあと2日になっていました。
自身が信行道場に入ってた平成12年度では、本山の朝勤に出仕した後に、御廟所にお参りし、そこから信行道場にという朝の流れでした。しかし、現在のコロナ禍では、御廟所のお参りのみ外に出ることができるそうです。
6時15分過ぎには信行道場を出るとの情報をもらい、本山朝勤から急いで御廟所へと。
ちょうどそのお姿を拝見することができました。
御廟所での朝勤にて聞こえてきた御遺文が「諸法実相抄」でした。
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候て、三仏の守護をかうむらせ給べし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給べし。
日蓮聖人御遺文『諸法実相抄』
私自身が信行道場を出て20年以上の歳月が流れました。一生懸命大きな声でお題目を唱える若手僧侶の姿を見て、色々と考えることがありました。そして、諸法実相抄の次の2文が心に響きました。
行学たへなば仏法はあるべからず
行学は信心よりをこるべく候
久しぶりに身延山久遠寺にお参りでき、心が洗われるそんな機会を頂戴いたしました。