中山法華経寺

///中山法華経寺

日蓮宗 大本山 中山 法華経寺

-御遺文恪護の祈祷根本道場-

日蓮宗大荒行堂

日蓮宗大荒行堂

正中山法華経寺

【所在地】〒272-0813 千葉県市川市中山2−10−1

檀家さんとの会話で「今日は中山に」と伝えると「法華経寺か?」といわれるほど、この地域にとても密接しているお寺が、大本山法華経寺です。

11月1日になると荒行堂が開設され、100日間の荒行が行われているお寺としても有名です。自身も平成16年、平成22年と2回の荒行をする機会を頂戴し、さらに5年程修行僧の方々のお手伝いをしておりましたので、自身にとっても馴染みがあるお寺です。

歴史

法華経寺の歴史は日蓮聖人在世当時まで遡ります。日蓮聖人は松葉谷法難にて下総へと逃れ、若宮の豪族で檀越の富木常忍のもとを訪れます。文応元年(1260)、館に法華堂を建立し、このお堂が後の法華寺となります。そして、翌年春迄の100日間、此の地にて説法をいたしました。このため、法華経寺は宗祖初転法輪の霊跡とも称されます。その後、中山の豪族大田乗明も館に持仏堂を建立し、後の本妙寺となります。

富木常忍は、日蓮聖人遷化の後に出家して日常と名乗り、日蓮聖人の御真筆の拡散を防ぐべく聖教殿に恪護いたします。日常上人入滅の折、大田乗明の子・日高上人が法華寺第2世となります。そして、日高上人は邸跡に本妙寺を創建し、両山一主制となります。さらに、豪族・千葉胤貞を俗別当に迎え、胤貞の養子となる日祐上人が第3世となります。

その後、南北朝時代から室町時代にかけて数多くの名僧を輩出いたいます。顕本法華宗の開祖日什上人、京都本法寺開山・鍋冠り日親上人、京都頂妙寺日祝上人等です。

そして戦国時代には、法華寺と本妙寺が合併して法華経寺となります。

戦後になると日蓮宗から一時分離して「中山妙宗」となりますが、昭和48年に再び日蓮宗へと復帰することとなり現在に至ります。

以下に市川市教育委員会による祖師堂の概略について記します。

祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中2年(1325)に上棟した小規模な五間堂でした。その後、焼失などのため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝6年(1678)に上棟されたものです。

建物は大規模な7間堂で、屋根を2つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。堂内は、正面の吹き放し外陣、内部の広い内陣、それに両脇の脇陣と背面の後陣に区切られています。内外陣境の上部には揚格子、下方には結界と呼ばれる取り外し可能な仕切りを入れ、また内脇陣境にも同様な結界がありますが、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。これらは日蓮宗の仏堂によく見られる特有の形式です。内陣は本来板敷きですが、現在は畳を敷詰めてあります。天井は格縁天井といい、碁盤目状の縁の部分は黒漆塗りで、天井板には桔梗紋が描かれているほか、内陣周りの上部は極彩色塗で荘厳されています。

祖師堂は関東地方では数少ない大型日蓮宗仏堂の典型で、その規模や形式は当時の庶民信仰の動向を知る上での一指標として位置付けられるとともに、建立年代が明確な構造物としても重要です。

昭和62年から始まった解体修理は十年の歳月を費やして平成9年に完了し、建立当初の姿に復原されました。

法華経寺内

-本覚寺第1世加藤雲洞上人書-

祖父が書いた字は、中山法華経寺の参道にあります。

父から聞いた話では、当時の法華経寺奥之院のご住職と昵懇の関係にあり、その縁にて石碑の題字を書くこととなったそうです。父の弟である海徳寺第6世加藤貴啓上人(報恩院日教上人)の「貴啓」という命名者も、その当時の奥之院住職によるものであるとのことでした。

By |2019-02-14T11:12:42+09:002019/02/04|