日蓮宗本山 長崇山妙興寺 | 野呂檀林の教風を伝える

妙興寺

日蓮宗本山 長崇山 妙興寺

【所在地】〒265-0053 千葉県千葉市若葉区野呂町738

はじめに

京都から松戸のお寺に戻って以降、御縁があって妙興寺さんのお手伝いをさせて頂く機会がございました。普段他のお寺のお手伝いに行く経験がなかった小生にとって、色々と勉強させていただいたお寺です。

先日、荒行堂の帰山式でお伺いする機会がありました。本山ですので大変古い歴史を有していることは知っていましたが、「野呂檀林のお寺」程度の知識しかなく、「そういえば詳しい歴史はどうだったかな?」と帰路でふと考え、今回のホームーページの紹介となります。

以下では、『日蓮宗本山めぐり 日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて』に掲載されている妙興寺の情報を主に参照しております。そういえば、今もとにあるこの『日蓮宗本山めぐり』は、妙興寺の貫首さんから頂戴したものでした。

今回このホームページで紹介することで、さらに自身の見聞を深めることができました。

栄久寺

栄久寺

歴史

日蓮宗徒の教育殿堂として200年の歴史を誇った「野呂檀林」とともに隆盛をきわめた本化の道場。

寺の周囲には老杉がうっそうと茂り、そのなかに檀林時代に松平安芸守(まつだいらあきのかみ)の建立寄進になる一切経堂を改築した子安堂が現存している。

縁起

宗祖の檀越・曽谷入道教信の子である曽谷四郎左衛門直秀が出家して道崇と号し、建治元年(1275)、現境内の南方800メートル、鹿島支流を隔てた加納ヶ丘の地に法華の道場を開いた。曽谷氏は千葉県市川市の曽谷大野地区を領する豪族で、教信は宗祖の生涯を通じての支援者であった。出家して法蓮と号し、大野の法蓮寺を開基した。

このとき日蓮聖人はすでに身延へ入っておられたので、弟子の日合上人を遣わし、開堂供養を行い開山とした。なお、日合上人は天津の領主工藤吉高隆の舎弟にあたる。

その後、講堂が建立され七堂伽藍を有していたが、永禄12年(1569)、里見氏の兵乱によってことごとく焼失。天正7年(1579)、当地の地頭・斉藤善七郎胤次が再建願主として現在地に土地を寄進し堂宇を建立。さらに天保年間(1830〜44)に再建されている。

妙興寺のお手伝いの際に、貫首さんが『開山日合上人・・・』とおっしゃっていることをたびたび耳にしていたので、日合上人のお名前はなんとなく知っておりましたが、開山となっている理由を今回初めて知りました。また、妙興寺と法蓮寺とが関係していることもぼんやりとは認識していましたが、その関係は、親が法蓮寺を、子が妙興寺とそれぞれゆかりがあるという点も知ることができました。

野呂檀林

慶長元年(1596)、僧侶の教育機関として寺内に開設された「野呂檀林」は、当時としてはまれにみる大講堂を有していた。

寛文元年(1661)には碩学・安国院日講上人が『法華玄義』『法華文句』を講ずると全国から学徒が集まり隆盛をきわめた。

しかし、寛文6年(1666)、幕府は上人の唱える不受不施理論を非とし、同上人を日向に流罪に処し、しばらく寺運は衰微した。

その後に檀林も勢力を盛り返したが、天保5年(1834)の山火事で堂宇を失い、閉講のやむなきに至った。寺はすぐさま再建が図られ、天保7年に庫裡が建立され、文久3年(1863)より7年かけて本堂が建立され、今日まで700余年の法灯を伝えている。

この記述が野呂檀林に関するものです。身延山での甲種検定試験の時に、「檀林」、「不受不施」、「安国院日講上人」等の名前が出てきたのを思い出しました。

檀林教育の流れが、現在の日蓮宗では「法縁」という組織へとつながっており、多くの僧侶の方々が研鑽を積んだ道場が野呂檀林の妙興寺となります。野呂檀林は現在の合師法縁であり、通師・千駄ヶ谷法縁とも呼ばれています。なお、当山本覚寺は六牙院日潮上人を縁祖とする「潮師法縁」に属しております。

この記述を書きながら、そういえば「碑文谷法華寺」や「寛文法難」等も甲種の試験にでてくると思い、必死で勉強したことを思い出しました。目黒の辺りを通った時に、「碑文谷」という看板を見て、「昔の碑文谷法華寺はこの辺りにあったのか・・・」と思いを馳せたことがありました。残念ながら碑文谷法華寺は現在では天台宗円融寺となっているようです。

道の駅 くりもと

道の駅くりもと

道の駅くりもと

ここ数年、秋になると香取市の道の駅くりもとに行くようになりました。

目的は「芋掘り」です。香取市はサツマイモの名産地で、道の駅にて様々なサツマイモが販売されています。お寺の行事に提供するサツマイモを購入しがてら、家族サービスの一環として家族揃って芋掘りをするのが恒例となりつつあります。

その時に気がついたのが、道の駅の脇に、何やらお墓のような一画が。

何かなと思って近づいたところ、石碑がバラバラとなっており、それを再度積み上げた何だか不思議な石碑でした。

その縁起を見てみると、妙興寺と大変ゆかりのあることに気が付きました。

日講上人遭難之墓

日講上人遭難之墓

道の駅くりもと

道の駅くりもと

日講聖人遭難之墓

安国院ト号ス守恵雄後六聖人ノ一人啓蒙求者京都於賀氏日習ニ従イ中村檀林等ニ学ビ後ニ野呂檀林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文6年(西暦1666年)5月27日日向ノ国佐土原ニ配流

仝所ニ寂ス73歳

日講上人遭難の地

日講上人遭難

日講上人遭難

日講上人

日講上人

史跡

法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)、また施しもしない(不施)という主義主張の不受不施は、京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですが、その主張活動は幕府より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗門となった。寛文5年(1665)同派の日講は佐土原へ流罪となったが、一萬部読経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後、弟子の日念等がその意志をつぎ宝永2年(1705)に建てたものです。

しかし寛政6年(1794)、当時の支配者への内通により石塔は3日3晩焼かれ、そして打ちくだかれ土中に埋められました。

その後明治9年(1876)、その宗教活動が許され、沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し、組み合わされました。

平成16年3月

栗源町教育委員会

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