日蓮宗本山 小松原山 鏡忍寺
【所在地】〒296-0044 千葉県鴨川市広場1413
はじめに
昨年の本覚寺団参にて最後に訪れた本山が鏡忍寺でした。
清澄寺や誕生寺等、すぐ近くには行くことがあっても、思えばお参りしていなかったお寺の一つです。日蓮聖人の四大法難の一つ小松原法難の地であることは知ってはいたものの、今回お参りして気がついたことも多々ございました。
縁起
以下では、『日蓮宗本山めぐり 日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて』に依拠しつつ、その縁起を記します。
日蓮聖人は伊豆法難より12年ぶりに故郷小湊に戻られ、生母に孝養を尽くされた。その後、花房の蓮華寺において師道善房とも久々の対面をなされた。
この、聖人が房総ご滞在中の文永元年(1264)11月11日の夕刻、既に帰依していた天津の城主工藤吉隆に招かれ、10人ほどで花房蓮華寺を発ち天津へ向う途次、当地を通りかかった。そこを、聖人が清澄寺の持仏堂で初めて法華経の説法をされたときから殺意を抱いていた念仏信者で、当地の地頭・東条景信ら一党が襲撃。聖人は、念珠で振りおろされる景信の太刀をお払いになったものの、額に三寸ほどの傷を負われた。必死に防戦した鏡忍房と駆けつけた工藤吉隆が殉死、ほかの弟子二人も大傷を負った。
九死に一生を得た聖人は、殉死した鏡忍房をその地に葬り、小松を植えて墓標とした。吉隆の遺子は後、聖人の弟子となって出家、日隆と号し、鏡忍房と吉隆の菩提を弔うため、弘安4年(1281)3月15日に当山を建立した。
開山は日蓮聖人、2世に鏡忍房、3世に日玉上人(工藤吉隆)をたて、日隆上人は自ら4世の法灯を継いだ。
日蓮宗本山めぐり 日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて
下記の写真は鏡忍寺境内に掲げられていた縁起です。
波の伊八
今回の団参では、本堂内にて御開帳・回向をしたいただき、その後諸堂を案内していただきました。
その中で初めて知ったのが、鏡忍寺内の欄間を手掛けた彫師が「波の伊八」であることです。
数年前に「波の伊八」と言われても、「誰?」と思っておりました。たまたま、海徳寺の檀家さんが編集された『江戸時代の彫工 初代波の伊八 武志伊八郎信由 作品集』を手にする機会があり、頭の片隅に残っておりました。
そして、今回実際の欄干を目にする機会を頂戴し、その見事な彫りに目を奪われました。
以前柴又の帝釈天にお参りした時も、本堂の周りに掘られた彫刻が見事であった印象をもっていましたが、その彫りも「波の伊八」の作品の一つであることも知りました。
以下に、海徳寺の檀家さんが代表を務められている「伊八会」の資料を紹介いたします。
波の伊八について
江戸時代から昭和にかけ、房総半島を中心に、五代にわたって、寺院の欄間や神社の向拝を彫った宮彫り師一族がいました。波を彫ることを得意としていたので「波の伊八」と呼ばれていました。
特に、初代の“武志伊八郎信由”は少年の頃より手先が器用で、19歳で鴨川市鏡忍寺祖師堂の飾りを彫り、“彫物大工・武士伊八”と墨書を残しています。その後、73歳でなくなるまで数多くの作品を残し、年齢とともに変化してゆく作風は驚くものがあります。枠にはまりきれず枠からはみだした”龍”など現代アートを超える作品は、彼の天才ぶりを遺憾なく発揮し、見る者を震えあがらせます。行元寺の“波と宝珠”には、太平洋の荒波の波間に浮かぶ宝珠が彫られ、般若心経の「空」を波で表現していると言われています。
伊八会資料より