方便品第二とは?
お釈迦様は三十歳で悟りを開いてから、八十歳で御入滅されるまでの五十年間に様々な教えを説かれ、その教え(=お経)は八万四千ほどあるといわれます。日蓮宗では、お釈迦様が本当にお説きになりたかったことは、晩年八年間に説かれた妙法蓮華経(略して法華経)に示されていると考え、法華経を経典として位置づけております。
法華経は全体で二十八品(「品」とは現代語の「章」、英語では「chapter」の意)で構成されております。その法華経の中でも、特に重要と考えられているのが、第二章である方便品第二と、第十六章である如来寿量品第十六です。法要の趣旨などにより読むお経も適宜異なりますが、どのような法要・葬儀であっても、日蓮宗のお寺であれば、この二つのお経を読むことが多いです。
「嘘も方便」という使われ方が、方便という言葉の最も一般的な使われ方であると思われます。方便品第二では、お釈迦様のそれまでの教えは、皆を本当の教えに導くための仮の教え、すなわち方便であり、これからお釈迦様の本懐(本当に言いたかったこと)が説かれますよというような位置づけとして解釈されます。
十如是とは?
以上のことを念頭に置きつつ本題に入ると、方便品の最後の経文には、「如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」、いわゆる「十如是」と呼ばれる部分があります。「門前の小僧習わぬ経を読む」の如く、私自身、字が読めない時からお経を耳で聞いていつしか覚え、自然とお経を唱えてきました。その為、十如是の部分は三回繰り返すものとしてこれまであまり気になることはありませんでした。しかし、何故三回繰り返すのかと問われれば、そこには何らかの理由があるはずです。色々と調べた結果、その理由を説明するには自身の言葉に咀嚼して説明するには難しいと判断いたしました。そこで、以下では大本山池上本門寺発行『池上』2012年9月号pp.20-21を引用し、その理由をご紹介いたします。
なぜ十如是を三回繰り返すのか?
さて、ご質問の「所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」の部分ですが、これはお釈迦様が、この世界のあらゆる物事(諸法)の有り様を「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」という十のカテゴリーに分類して説かれたもので、それぞれに「如是」という語が付されているので「十如是」と言われます。
相とは外面の形相、性とは内面の本性、体とは相や性を統一する主体、力とは体が備える潜在的能力、作とは力が外界に現れて動作となったもの、因とは原因、縁とは因を補助する間接原因、果とは因と縁から生じた結果、報とは因果によって生じる報果、本末究竟等とは相から報までの原理は一貫しており、その帰結するところは同一であるということ。(小松邦彰・冠賢一「日蓮宗小事典」より)
例えば、植物の種に当てはめると、種の色や形が「相」、内面の、やがて植物になるという性質が「性」、その色形・性質を備えた種全体を「体」、種が実を結び、再び新たな種を宿す、その内に秘めた能力を「力」、芽を出すことで外界に働きかけ始める動作としての「作」、種自身が植物になる原因であるという意味で「因」、成長に必要な土や水などの諸条件も種の一部と見なす「縁」、花が咲き、実を結ぶという「果」、花を見て人が喜び、実を食べて鳥が生きるなど、他への影響としての「報」、以上の九つが差別なく等しくひとつの種に備わっている意味の「本末究竟等」。このように理解することができると思います。
そして、その部分を三回繰り返して読むのは、天台宗の開祖である天台大師智顗(五三八~五九七)が「法華玄義」という法華経の解釈論の中で、十如是に「空諦・仮諦・中諦の三諦」という意義をあてられたからです。「諦」とは、真理・真実という意味で、空諦とは、あらゆる物事には永久不変の固定した実体・本質というものはなく、相互の関係性において千変万化するということ、仮諦とは、あらゆる物事は、その状況や因果関係において、様々な要素が仮に集合して“あたかも実在しているかのように”見なすということ、そして中諦とは、その空諦と仮諦のどちらにも極端に偏ることなく中立に物事を見るということです。
天台大師は、物事の有り様である十如是に、「世界を見すえる三つの視点」である三諦を配され、仏道の修行においては、こうしたものの見方が重要であると説かれたのです。このような意味で、方便品の十如是の部分は三回繰り返して読まれるのです。
空諦だけでは、世界が空しく見えてしまい、自ら能動的に行動する意志が持てなくなってしまいます。仮諦だけでは、変わらず実在し続けるかに見えるものに執着し、やがてそれが失われることに苦しむことになります。どちらも真理でありますが、一方に偏ることなく、バランスよく世界を見る。方便品を読む度に、そこに込められた意義を噛みしめたいものです。