はじめに
京都での学生時代には、本山妙國寺があるこの堺の地も何度か訪れていました。初めての堺は、大学1年の野球部の夏合宿にて新日鉄堺のグランドにて1週間程キャンプをした時だと思います。メジャリーグにて活躍した野茂選手が所属していた社会人野球のチームが廃部となった直後に、そのグラウンドを利用させていただきました。当時、新日鉄堺のバレーボール部には中垣内選手が所属しており、体育館に向かう中垣内選手を何度か近くにて目撃した記憶があります。
そのような記憶は残っているものの、堺に日蓮宗の本山があることは全く知りませんでした。令和5年11月より、NHKカルチャーセンター梅田にて福島上人の講義を受講するようになり、せっかくの機会なので本山妙國寺にお参りしてきました。
交通手段
梅田駅から45分程度で到着しました。長年京都にいましたが、南海電車に乗ったのは初めてかもしれません。
御堂筋線(8分)
南海高野線(11分)
京都に長年住んでいて南海電車に乗った記憶はありませんでした。
徒歩15分程
堺東駅から徒歩でしばらく進むと、大きな伽藍が目に入りました。妙國寺かと思い写真を撮ったのですが、他宗のお寺でした。
妙國寺縁起
永禄5年(1562)、仏心院日珖(ぶっしんいんにちこう)上人が三好豊前守之康の帰依を得、東西3丁・南北5丁の寺領と大蘇鉄を寄進され、さらに上人の父で堺の豪商油屋常言と兄の常祐の外護で本堂・主殿・南北の学舎・経蔵など、諸堂を建立し開創された。
妙國寺の寺号は、日珖上人の師日沾(にちでん)上人の師である京都頂妙寺の祖妙国院日祝(みょうこくいんにっしゅう)上人の院号にちなむ。
日珖上人は講堂に山光院日詮(にっせん)上人・常光院日諦(にったい)上人を招いて、ともに『法華文句(ほっけもんぐ)』の講習を始めた。互いに主となり伴となって進めたので、三光無師会(さんこうむしえ)、また三光勝会(さんこうしょうえ)と称していた。これによって、今まで折伏布教に重点を置いていた日蓮宗の動向が、教学振興の気運に一転したのは特筆すべきことだ。
元和元年(1615)大阪夏の陣の兵火を受け、全堂消失。その後、寛永5年(1628)に本堂再建、以後歴代によって諸堂、三重塔が整備されてきたが、昭和20年の戦火で再び堂宇を焼失、45年から着々と再建事業が進み、47年には本堂・客殿などの伽藍が復興している。
日蓮宗全国本山会(2003)『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて』日蓮宗新聞社
到着した時間が夕方だったので、残念ながらゆっくりと拝観することはできませんでした。
蘇鉄が有名なことは知っていましたが、写真に映っている蘇鉄は天然記念物とは別の蘇鉄でしょう。また、幕末に土佐藩士とフランス水兵との間に起きた「堺事件」で亡くなった土佐藩士を弔う供養塔が境内にありました。堺事件は森鴎外が後に小説にしています。さらに、千利休寄進の六地蔵や手水鉢、徳川家康、与謝野晶子、正岡子規などが大蘇鉄を詠んだ歌碑も残されているそうです。
もう少し事前の情報を入手してからお参りすべきでした。
三光無師会
10年程前に受けた日蓮宗の甲種試験の際に、三光無師会という話を耳にしました。久しぶりでしたので備忘録として日蓮宗wikiに記載されていた三光無師会の項目を下記引用いたします。
別名を三光勝会ともいう。
日蓮宗wiki
永禄二年(一五六八)堺の仏心院日珖は父の発願により妙国寺を建立し、当時の碩学・山光院日詮、常光院日諦の二師を招き、三師が互いに輪番で講主を一定せず、堺の妙国寺の僧侶のために天台学を講義したその講義集会をいう。
これは後に江戸時代の檀林興隆を促進した。
日諦の門人日厳はその講義録二五巻をまとめ『文句無師』を作った。 これは別名『三光無師書』という。
三講師の日珖・山光院・常光院と光の字が通じるところから、人呼んで三光無師会または三光勝会といった。
元和三年(一六一七)八月に妙国寺五世竜雲院日現が幕府に御朱印地下賜の願書を出している中に、日珖は「其の時分宗旨の中、旨方能化両人招待され、日珖と三人の能化衆、この頂源寺において替々始めて六十巻の講釈候所に、屋敷は三好実休寄進、伽藍は油屋建立候て妙国寺出来候、妙国、大寺に候間三人之衆、并びに諸国より相集る数十人の聴聞の衆、妙国寺の一院へ相移され、都合八年に相違なく、天台の三大部成就仕候」と記している。 「妙国寺の一院」とは竜雲院で、「旨方の能化両人」とは日諦・日詮であろう。
また『文句無師』によれば、文句の講義は永禄一一年(一五六八)一一月四日から頂源寺で始められ、四日は日珖、五日は日諦、六日は日詮の順で、次に八・九・一〇というふうに講義が行われ、休講期間の長短や講師の順序の変更もあるが、元亀二年(一五七一)一二月一七日勧発品の日詮の終講で『文句』を終えている。 また同三年六月に『玄義』、同四年五月に『止観』を終えている。
『文句無師』は永禄一一年一一月四日から筆録されているが、実際は一〇月二六日から始められている。
三光無師会または三光勝会の名は後人がつけたものであり、草山元政は三光勝会の名を記しているから、日重・日現以後この名がいわれたのであろう。
この三光無師会の講義を受けた中に、舜孝・尊秀・哲境・日千・日諝・日重・日厳などの英才が出ている。
なお日珖は堺の豪商油屋伊達常言の子で、天文元年(一五三二)に生れ、長源寺日沾に師事、三井の尊契に学び、卜部兼石に神道をも学んでいる。 弘治元年(一五五五)頂妙寺三世を継ぎ、また頂源寺を再興し権僧正になっている。 更に日珖は正覚院日航、仏眼院日統と共に長源寺で録内御書を校合している。
《『日蓮辞典』「三光無師会」の項》