日蓮宗 信行道場

信行道場

日蓮宗 信行道場

本年は、本覚寺開山加藤錬明(号:雲洞)上人の第50回忌となります。

現在、過去の写真を整理しつつ、雲洞上人の足跡を辿っております。幸いなことに雲洞上人は大変几帳面な性格で、写真の裏にはいつ・どこで・誰と撮った写真であるかのメモ書きが残されているものが散見されます。

そのような写真が見つかってもこれまでは再び元の所に戻しておりましたが、雲洞上人の功績を多くの方々に知っていいただくことも爺さん孝行になるものと考え、このホームページに加筆・修正を加えました。

雲洞上人は自身が生れる前に遷化しており、実際にお会いしたことはございませんが、日蓮宗の僧侶の登竜門である信行道場の訓育主任に任命されていることからも、雲洞上人の人望は極めて高かったであろうことが容易に推察されます。

今回出てきた写真(昭和15年5月の日付)は、第1期信行道場の様子を写したものです。昭和14年4月30日に撮影された信行道場の落慶法要の写真も一緒に同封されておりましたので、未確認ではありますが、日蓮宗の正式な教育機関として信行道場が開設された最初の訓育主任は、当山の雲洞上人だったのかもしれません。

詳しくは、こちらのページに加筆いたしました。

日蓮宗信行道場訓育主任として

 

後日わかったことなのですが、以下に示す『日蓮宗事典』によると、昭和12年8月1日に初めて開設したという記述がありました。そのため、上記写真の昭和15年は第1回ではないようです。今回たまたま発見された写真が昭和15年の信行道場のものであったので真偽の程はわかりませんが、ひょっとしたら昭和15年より前の年も、雲洞上人は信行道場に携わっていたかもしれません。いずれにせよ信行道場の創設期に指導者として日蓮宗の僧侶の育成に尽力したことは間違いありません。

日蓮宗事典より『信行道場』

教師及び教師補となるために必要な行学の修練を行うところで、正式には日蓮宗信行道場という。但し補教の修練をするところは補教信行道場という。昭和一二年(一九三七)八月一日初めて開設したもので、身延山久遠寺内に置かれ宗立となっている。我が宗門が明治末期から大正にかけて行った学制の変更は時機相応の知識を得ることに成功したが、学僧の信行はこれに反比例して次第に希薄に趣く傾向を生じ、歴代当局の大きな悩みであった。第二九代管長(久遠寺住職)望月日謙は深く期するところあり、この回生策として場所を祖山に選定し、大講堂は函館実行寺檀家総代梅津福次郎の寄進を得て信行道場を開設したのである。信行道場及び補教信行道場において修練する科目は三寶給仕、正助二行、法要式及び布教法、宗学及び仏教学大意、信行訓話の五科目である。開設以来既に相当年数を経ているので、この経験を生かし信行道場の使命と修練をしてより多くの成果をもたらすために、昭和四八年三月日蓮宗カリキュラム作成委員会が発足、三年間の討議研究の結果、同五三年二月信行道場読本が出版されるに至った。修練期間は何れも三五日とし、その開設期日は宗務総長が定める。但し特別の場合は短縮または延長することができることになっている。修練開期については昭和一六年八月二八日発布施行令達第四号「日蓮宗宗制施行細則」に、春期・四月一〇日より五月一四日迄、夏期・六月一日より七月五日迄、秋期・九月二七日より一〇月三一日迄、冬期・一一月七日より一二月一一日迄の四期開設とした。これは当時補教信行道場の制度を置かず、その開期によって科目の内容に差をつけ、修行者は各自の能力に応じ、それぞれ該当の開期に入場したのである。即ち春期は大学卒業または高等試験合格者、夏期は普通試験合格者及び宗学林卒業者、秋期は宗学林第二学年修了者及び年齢一八歳以上で度牒試験に合格し准補導試験を受けんとする者、冬期は格別に定めていないが尼僧が入場した。現行『宗制』においてはこれを廃し春から秋の間に三五日間ずつ三期開設し、内一期は尼僧信行道場と補教信行道場を隔年交替に開いている。開設期間の短縮または延長については第二次世界大戦の時、諸種の事情によって道場が開設されなかったため、戦時中の入場予定者が戦後多数溜ったので、開設の期間を短縮して年間の開設回数を増加したことがある。延長については未だその例がない。信行道場の機構については最高位に化主一人、次位に主監一人を置き、化主は身延山久遠寺法主、主監は同山の総務について、何れも宗務総長が委嘱する。他に道場開設の都度化主の推薦により総長が任命する訓育主任一人、主事二人、書記若干人及び必要により訓育副主任、講師若干人を置く。化主は道場を統監し、主監は化主を補佐し、道場を監督する。訓育主任は化主の方針に従い、修行者の訓育指導にあたる。主事は教務及び庶務を処理し、書記は事務に従事することになっている。以上の機構により道場を運営し修行者は「道場清規」を遵守し修練を積むのである。信行道場は昭和一二年開設以来年輪を重ねたのと、他に修法加行所・先達修練等にも使用したので次第に捐傷し、なお収容施設も狭くなったため同四一年三月第一八宗会において「日蓮宗信行道場建設委員会」が発足、日蓮聖人降誕七五〇年慶讃記念事業として改築することとなった。身延山久遠寺の絶大なる協助を受け、同四三年一一月隣接地北之坊(住職貴家是勝)より必要土地買収、登記。同四五年四月一三日起工式、四七年五月三〇日全施設落慶、その式典を挙行した。総工費一億五〇〇〇万円、全国寺院教会結社の慶讃志納金及び特別賦課金、僧俗からの特別志納金を財源とした。その半額は身延山久遠寺の據出である。

日蓮宗 松戸 本覚寺