加藤雲洞 書道ギャラリー

松戸 本覚寺 開山

書道ギャラリー2016-11-15T22:34:52+09:00
  • 加藤雲洞上人

雲洞上人書道ギャラリー

身延山 久遠寺内

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その他

加藤雲洞上人略歴

 

明治33年6月6日、父:熊谷薫(仙台藩備前守熊谷直昌第17代)、母:よしの4男として、宮城県玉造郡岩出山町真山にて誕生した。幼名は文明。宿縁ありて2歳の時に、岩出山町本還寺の開基檀方加藤辰吉の養子となる。

麻布大長寺小野錬雄上人を師匠として、大正4年8月31日山形県上山妙正寺において剃髪・得度し、錬明と改名する。

大正4年8月31日 加藤錬明上人得度式(山形県上山妙正寺)

加藤錬明上人得度式(大正4年8月31日 於山形県上山妙正寺)

 

大正4年16歳の時に、宗祖の心髄を身に体すべく身延山に学ぶ。その後、陸軍に入隊し、三等看護長となり除隊、再び祖山学院に学び、昭和5年3月高等部を卒業する。

卒業後講師に叙せられ、身延山久遠寺庶務に奉職するとともに、祖山学院教諭(在職14年)、祖山学院青年学校主事、日蓮宗信行道場訓育主任、身延高等女学校教諭(在職6年)、立正光生園児童文庫主任、書道部講師、湯田高等女学校、女子商業学校、高等家政女学校講師、身延中学校臨時教員養成所教諭等、教育の分野において活躍する。

戦時中は、従軍布教師として中支派遣軍軍令部嘱託として中国各地に布教をする。火野葦平「麦と兵隊」には次のように紹介されている。

火野葦平「麦と兵隊」

『五月四日南京駅着、悒江門の前に戦没勇士を祀る白木の塔が建てられてあるので車を降り、敬礼して行く。一丈に余る碑の正面の「皇軍将兵戦死病没之英霊菩提」とあり、横に「如日月光明能除諸幽冥」昭和十三年一月二十日村岡部隊建設、身延山雲洞書と署名があって立派な字である。花が手向けられ、線香の煙が立ちのぼって居る。』

火野葦平『麦と兵隊』

火野葦平『麦と兵隊』墓標と雲洞上人

火野葦平 麦と兵隊

火野葦平『麦と兵隊』

 

帰還後、日蓮宗宗務院に奉職し、専任布教師、日蓮宗千葉県北部社会事業教会会長、松戸市仏教会副会長、日蓮宗寺院友会会長等の顕職を歴任した。

また、身延町の書道の発展にも貢献した。身延町発行『身延町誌』には次のように紹介されており、上人の功績を伺い知ることができる。

加藤雲洞

日蓮宗僧侶 昭和5年より15ヵ年間、本町に在住する。その間、身延山祖山学院、県立身延中学校で書道の教鞭(べん)をとるかたわら塾(じゅく)を開いて指導にあたり、書道の町としての名声を高からしめた。その薫陶をうけた人々が現在身延町書道の中心となっている。松戸市に転居後も第1回身延山全国書道展より、第15回までその中心として指導された。また、日本書道院の総務として書道界に貢献された。昭和42年松戸市において逝去する。

昭和15年3月、出生地宮城県真山本還寺にて初転法輪をなし、地方布教に専念する。秋田県横手市妙倉寺・妙昌寺、山形県日秀寺・妙栄寺、宮城県小牛田妙法結社、青森県妙慶寺、静岡県妙法寺伊東延寿報恩会、千葉県習志野市海徳寺等の設立に尽力する。

昭和17年には松戸に居を構え、元禄12年より創設されている本覚庵を本覚寺に寺号公称し、本堂・庫裡・墓地・参道を整備する。昭和38年僧正に叙せられ、本妙山大長寺第33世に加歴される。

以下に示すような数多くの徒弟を育成したことも、雲洞上人の特筆すべき功績としてあげられる。

松田永華上人 小松妙華法尼 工藤妙昌法尼 甲州錬栄上人 草野法界上人 桃谷錬浄上人 加藤海正上人 加藤清守上人 梨羽錬長上人 早川妙芳法尼 坂本妙慶法尼 髙橋妙光法尼 加藤雅章上人 加藤貴啓上人

加藤雲洞弟子集合写真

加藤雲洞弟子集合写真(昭和34年1月12日・於本覚寺)

左から、甲州錬栄上人、早川妙芳法尼、桃谷錬浄上人、松田永華上人、草野法界上人、加藤清守上人、加藤海正上人

 

昭和42年9月28日、家族、徒弟、親族、檀信徒等に見守られ遷化。法寿68歳。

日蓮宗信行道場訓育主任として(昭和15年)

秋田県横手市妙倉寺(昭和18年・19年)