本圀寺

日蓮宗 大本山 本圀寺

-元松葉谷「正嫡付法」の根本道場-

大本山本圀寺

大本山本圀寺

大光山本圀寺

【所在地】〒607-8403 京都府京都市山科区御陵大岩町6

学生時代に京都に10数年暮らしておりましたが、なかなか日蓮宗の寺院に行く機会はありませんでした。

先日、京都での結婚式を機に、京都の本山巡りをしようと思い、最初に訪れたのが大本山本圀寺です。

かつては京都六条の地(現在のJR京都駅前)に広大な敷地を有しておりました。以前宿泊したJR京都駅前のホテルの部屋から外を眺めると、お題目が書かれた石碑があり、あれ?と思っておりましたが、かつて本圀寺があった名残が現在でも残されておりました。いつだったか記憶が定かではありませんが、京都に住んでいた時に、本屋さんにて現在の京都とかつての京都とを比較できる地図がありました。その時に、本圀寺の寺領がとても広大であったことに驚いた記憶があります。

現在では山科の地に移転しておりますが、往時の法華信仰、ことには六条門流の礎となる名刹が大本山本圀寺です。

歴史

大本山本圀寺縁起

大本山本圀寺縁起

日蓮法華宗の四大本山の一つ事始めの寺。日蓮聖人が鎌倉の松葉谷に創建し、自ら22箇年住持された法華堂・安国院の祖跡、末寺700を容した霊跡大本山。

嘉歴3年(1328)、後醍醐帝の綸旨を受け、貞和元年(1345)、光厳帝の勅諚により京都六条楊梅の地に移遷し、爾来各帝の綸旨を受け、立正安国・四海静謐を国祷する正嫡付法の勅願道場として、文明4年(1482)、後土御門帝の勅諚により、法華総本寺の認証を受く。

昭和44年(1969)、六条より山科の当地に移転し、目下再建中である。日蓮聖人御持仏の立像釈尊像・御真筆の立正安国論広本・御法難の赦免状の三箇の霊宝を恪護す。幅日本一の元俊作大涅槃図・長さ日本一の絵巻物註画讃・重要文化財の輪蔵式経蔵あり。大本堂・本師堂・安国院・開宗堂・妙見堂・清正廟・稲荷堂・柿本社、総門・赤門・三門・冠木門・二天門・唐門あり。財運の銭洗弁天など、パワースポットもある。

京都市

以上の記述は、本圀寺開運門前に掲示されていた京都市による本圀寺の縁起です。日蓮宗新聞社発行『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて-日蓮宗本山めぐり-』を参照しつつ、もう少し詳しく見てみると次の通りです。

本圀寺は西の祖山と呼称され、天皇の綸旨を所蔵する皇室鎮護の祈願道場でもあります。かつて本圀寺があった六条の地は、御所を中心にすると坤(ひつじさる)の西南にあたります。比叡山延暦寺が御所の鬼門である艮(うしとら)にあり、本圀寺は裏鬼門に位置していたことからも、本圀寺がとても重要視されていたことを伺い知ることができます。

そもそもの縁起は、日蓮聖人が鎌倉松葉谷にご草庵・法華堂を構えたことに始まります。伊豆法難から赦免された後に、日蓮聖人はこの法華堂を大光山・本国土妙寺と称されました。日蓮聖人御入滅以降も、時の政治の中心である鎌倉にて、弟子の日朗・日印・日静上人が護持継承いたしました。

その後、鎌倉から京都へと幕府が移ると、日静上人は光厳天皇の勅諚を賜り、京都六条の地に東西2町、南北6町にわたる広大な寺領を譲り受けます。そして第5世日伝上人の時代が六条門流の隆盛期でしたが、天文法華の乱や天明の大火等により被害を受けたことにより、その隆盛にも陰りがみられるようになりました。

かつて宿泊したJR京都駅前のホテルからお題目の石碑がみえたことの理由も、本圀寺の歴史を紐解くとよくわかります。本圀寺のwikipediaに歴史の詳細が記述されており、その記述に依拠すると、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命令で、西本願寺造立の為、本圀寺寺領のうち2町を割譲したとあります。宿泊したホテルは堀川通り沿いの京都東急ホテルで、かつて本圀寺があった場所がその辺りだったようです。本圀寺そのものは山科へと移転しましたが、現在でも西本願寺の付近には本圀寺の塔頭寺院が残っており、そのような歴史的背景があったことを調べてみて初めて知りました。

また、以前は「本国寺」と称されていたのが、「本圀寺」となったのには、徳川光圀公が深く関係しております。徳川光圀公は本圀寺にて生母久昌院の追善供養を行い、そのことがきっかけで「国」の字が「國」とへ改められたとのことでした。

本圀寺からは数々の名僧を輩出しており、日蓮宗・身延山中興の三師と呼ばれる日重・日乾・日遠上人、莚師法縁の祖日莚上人、達師法縁の祖日達上人、脱師法縁の祖日脱上人等が本圀寺有縁のお上人となります。

正嫡付法?

正嫡付法

正嫡付法

本ページのサブタイトルに記載した「正嫡付法(しょうちゃくふほう)」という言葉が聞き慣れない為、色々と調べて見ました。

宮崎英修編『日蓮辞典』を見れば、大凡の難しい言葉はわかるかなと思い索引を検索しましたが、「正法」はあっても「正嫡付法」という言葉は掲載されていませんでした。

そこで、インターネットにて「正嫡付法」を検索してみたところ、日蓮宗のポータルサイト内の本圀寺ホームページにその由来に関するヒントが書いてありました。

貞和3年(1348)5月15日、日静聖人は光明天皇から「六条本圀寺は日蓮正嫡の道場と為て 殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず 今日供養の旨 聞食し訖んぬ 弥々法華の功力を抽て 宜しく四海泰平の精誠を致さるべし者 天気 此くの如し 之れを悉せ 以て状す」という正嫡付法の綸旨を賜り、三位僧都に任命される。

加えて、日蓮宗新聞社発行『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて-日蓮宗本山めぐり-』の本圀寺のページには、

宗祖は入滅に先立つ弘安5年(1282)10月3日に、本師堂泰安の「立像釈尊像」(聖人が四大法難克服のご生涯のご持仏で、現当二世の諸願を成就せしめ、蘇生の霊験あらたかと伝えられる)、「三赦免状」(伊豆・龍ノ口・佐渡の法難を立証する重要な許状)、そして『立正安国論』(本圀寺所蔵本は聖人がご生涯御所持の宗祖ご真筆広本)を正嫡付法の譲状とともに日朗上人に授与された。これが当山の「三箇の霊宝」である

との記述もありました。

以上のことを踏まえると、「正嫡付法」とは、光明天皇の綸旨、または日朗上人への譲状に由来する言葉であると思われます。

By |2019-02-14T13:54:50+09:002019/02/14|