亀井院
本日は本覚寺が所属している真間組寺院である市川市真間亀井院の先師法要です。
昨日より風邪をひいたようで、朝方まで寝込んでおりましたが、なんとか法要に出仕できそうです。
一昨日に降り積もった雪も溶けており、車を利用しても大丈夫な状況でした。
亀井院縁起(真間之井と亀井院)
以下の文章は、昭和58年3月市川市教育委員会によるもので、亀井院入り口に掲げられている案内に依拠いたします。
万葉の歌人?橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
『勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』
(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水をくんだという手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。)
亀井院は寛永12年(1635)真間山弘法寺の11世日立上人が弘法寺貫首のとして建立したもので、当初『瓶井坊』と称された。瓶井とは湧き水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄9年(1696)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院(れいぼくいん)とよばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の17世日貞上人と図り万葉集に歌われた『真間の井』、『真間の娘子(手児奈)の墓』、『継橋(つぎはし)』の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之井の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正5年5月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
『米櫃に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり』
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
『蕗の葉に亀井の水のあふるれば 蛙なくなりかつしかの真間』
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮らしたが、これを紫烟草舎とよんでいる。