日蓮宗本山 靖定山 久昌寺
【所在地】茨城県常陸太田市新宿町239
はじめに
先日、八柱霊園での納骨法要がありました。とても広い墓所で、墓所内に先祖の供養塔がありました。そこに彫られている題字を見て、
「祖父の字に似ているけど、多少違うような気も・・・」
というようなことを思っていた時に、本覚寺の書庫に、祖父が自身で書いた字の一覧にした書類があったことを思い出しました。
そこで、その書類を書庫から見つけ、色々と調べてみました。当該墓所の字を書いた記録はなかったのですが、これまで自身が知らなかった様々な場所に、祖父が字を書いていることが判明しました。
思い立ったが吉日。本覚寺から比較的近く、書かれた字がきっと残っているであろうと思った場所が、本日お参りした本山久昌寺さんです。
昭和37年と昭和39年に記録が残っていました。
雲洞上人書
ここからが本題となります。
『筆陣録』を調べたところ、久昌寺さんの記載があった箇所は3箇所。
- 昭和39年4月23日 2尺5寸 本山久昌寺歴代之墓 水戸久昌寺 太田市西山 山岡日建
- 昭和37年3月7日 碑 6尺 水戸黄門法華経3部10巻 1字3礼浄写宝塔安置 義公廟
- 昭和37年3月7日 碑 5尺 水戸黄門創建之寺 旧蓮華寺お万様建立跡 本山 久昌寺
?本山久昌寺歴代之墓
まず、お寺の方に挨拶を済ませ事情を説明いたしました。女性に丁寧に応対していただきました。
当初は、歴代墓なので比較的大きなものであろうと予想をたて、大きなお墓を探してみました。すぐに歴代のお墓をみつけることができたのですが、字を見たところきっとこのお墓の字ではありません。
そこで、このお墓の近辺を調べてみると、祖父が書いたであろう字が目に飛び込んできました。
『筆陣録』には「本山久昌寺歴代之墓」と書いてありました。このため、書いてあった字と墓石に彫ってある字とは異なりますが、字体からして祖父が書いた字に間違いないです。
ここで気になったことが、久昌寺第10世の大牙院日上人。どのような方だったかネットで調べたところ、六本木・長耀寺の第32世であることがわかりました。
ということは、大牙院日豊上人と谷中瑞輪寺井上貫首さんとは、どうやら繋がっていそうです。
そこで思い出したことは、自身の結婚式の時のことです。師父とともに潮師法縁の縁頭である谷中瑞輪寺の井上貫首様にご挨拶しに伺ったところ、井上貫首様はどうやら師父(現・本覚寺住職)の子供の頃を知っているような話をしていました。
その時、「あれ?」と思っていたことがあります。それは、井上貫首様が「貴方が子供の頃に雲洞上人と水戸に来た時のことを覚えている。」のような話をされていました。
松戸と水戸とは一字違いなので、ひょっとしたら何か勘違いされているのかと思いつつ話を聞いておりました。しかし、久昌寺第10世大牙院日豊(井上日豊)貫首さんが、瑞輪寺井上貫首さんのお父さんであるのであれば、今回その時の謎が解けた気がいたします。
井上日豊貫首さんは、現・瑞輪寺井上貫首のお爺さんであるというご教示をいただきました。また、久昌寺第11世の山岡海辰日建貫首様は、世田谷区烏山玄照寺、新宿区四谷陽運寺(於岩稲荷)、四万薬王寺(現法華宗)開山の後、本山久昌寺へと晋山されたとの貴重な情報を頂戴いたしました。
令和2年12月22日修正。埼玉県のお上より
加えて、祖父が昔いたお寺は麻布・大長寺。現在、大長寺は府中に移転してしまいましたが、麻布と六本木とは近くです。100年以上前のこととなり確証はありませんが、日豊上人と祖父・雲洞上人とは東京でも繋がっていた可能性もあります。
隣の墓石に微妙な字が・・・
第10世の墓石の字は祖父のものとはっきり確信が持てるのですが、その隣にそれらしき墓石が。
第9世龍冠院日孝上人
こちらの字は祖父の字のような気もするけども、ひょっとしたら違うかもしれないと。紙に書いた場合には筆の特徴がはっきりとわかるのですが、石の字の場合には石工の方の彫り具合によってもだいぶ印象は変わります。加えて、こちらの石の場合には字が細いので、なんともいえないなと。
裏面には「昭和2年2月17日」と記されてあります。こちらの字については祖父が書いたかどうかは不明というのが現時点での結論です。
?義公廟
今回現地を調べたなかで、一番わかりやすかったのがこの『義公廟』の石碑です。
本覚寺にて『筆陣録』を見た時に、まず義公廟で画像検索をいたしました。すると、祖父の書いたであろう書体にて画像が検索されました。その裏付けがあったことも、『筆陣録』を見て最初に久昌寺さんを訪問したことも理由の1つです。
お寺の女性から、あの小高い丘の上にあるのが義公廟というご案内があったので、場所は一番わかりやすかったです。
昭和16(1941)年、光圀公(義公)の遺徳を忍んで建立されました。廟の中には、光圀公が生母の菩提を弔うために、法華経一部十巻八万三九〇〇字あまりを書き写した桧板三十枚を納める宝塔が安置されています。また光圀公が集めた明版大蔵経も収められています。
常陸太田市
しかし、義公廟の付近を探しても、字が刻まれた石碑らしきものはありませんでした。
そこで、階段を下ってみると・・・
見つけました!
上部の箇所は見にくいですが、書いてある字は以下の通りでした。
水戸黄門法華経三部十巻 一字三礼浄写宝塔安置 義公廟
『筆陣録』に書かれていたものと一字一句合致しています。
また石碑の裏側を見ると、
昭和三十八年節分会 靖定山第十一世蓮牙院日建代
『筆陣録』に記載された年月日は、昭和37年3月7日ですので、時期は多少異なります。しかし、書いてから石碑に刻むまである程度時間がかかることを考えれば、書かれていた通りであると言えるでしょう。
今回、?久昌寺事務所→?歴代の墓地→?境内墓地→?義公廟→?義公廟石碑という流れで、こちらの石碑にたどり着きました。順序が逆になってしまった為、気が付きませんでしたが、?義公廟入口→?義公廟というルートであれば、真っ先に気がついたでしょう。
?本山久昌寺 石碑
最後に見つけたのは、昭和37年3月7日に記された久昌寺の碑です。久昌寺についてから1時間程。あちこちを歩き回り、祖父の字が書かれているであろう碑を探しました。
久昌寺は小高い丘の上にあり、近辺を探したもののなかなか見つかりません。入り口となる県立太田第2高校のあたりまで下り、最初に目についた入り口の石碑を調べましたが・・・
車で脇を通った時から、この字は違うなと思っていました。裏面を見ても(正しく解読できているかは確信はないです)
「大正12稔11月9世日孝代 小菅米吉建立 昭和5庚午稔5月12日10世日豊代」
そこで、インターネットにて
「水戸黄門創建之寺 久昌寺」
と画像検索したところ、ヒットしたのが下記の写真。
参考 靖定山久昌寺(常陸太田市新宿町)日蓮聖人のご霊跡めぐり
この石碑の字は祖父の書いたものと確信をもったものの、この石碑がどこにあるのか全く見つかりません。
この石碑の背景に石積みの壁があることを手がかりに、久昌寺周辺を調べてみると・・・
見つけました!
『筆陣録』に記載されているような大きさ、碑、文字であることから、祖父雲洞上人が書いた字に間違いありません。『筆陣録』では「山岡日建」となっていますが、第11世の山岡日建貫首さんは「蓮牙院日建」上人ですので、資料と合致しております。
同じ人が書いているのだから当たり前ですが、ぱっと見た感じは、身延山久遠寺の信行道場石碑や清水房石碑とよく似ています。
この『筆陣録』がなければ、また、上記インターネットの画像検索の結果がなければ、今回こちらの石碑は末代まで祖父が書いたことに気がつかないままだったかもしれません。
今回突然のことではありましたが、本山久昌寺さんにお参りして本当に良かったと思いつつ帰路につきました。
歴史
- 「水戸黄門」光圀公ゆかりのお寺
- 「水戸三昧堂檀林」旧跡
- 光圀公祖母・養珠院お萬の方開基「蓮華寺」旧跡
以下の文章は、日蓮宗新聞社『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねてー日蓮宗本山めぐりー』および久昌寺にて頂戴しましたパンフレットを参照しました。
久昌寺の前身は経王寺といい、水戸藩の初祖・徳川頼房(よりふさ)の側室で光圀の母・久子が、その頃の傑僧・禅那院日忠上人のために城下の向井町に一寺を建立したのが始まりとされます。一寺建立の背景には、養珠院お萬の方の存在があります。お萬の方は熱心な法華経信者であり、久子は義母であるお萬の方の感化を受けていました。
寛文元年(1661)、久子が他界。光圀は母の13回忌追善供養のため、延宝元年(1673)から5年の歳月を費やして、かつての経王寺を常陸久慈郡稲木に移しました。光圀は母の法号・久昌院靖定大姉にちなみ、当山を靖定山妙法華院久昌寺と命名いたしました。
明治時代の廃仏毀釈・廃藩置県により、久昌寺は現在地にあった蓮華寺(幕末に養珠院お萬の方が建立)に移転。昭和6年に本堂を改築。近年、虚空蔵菩薩堂と霊寶殿も落成いたしました。
三昧堂檀林
学者で知られた光圀は、天和2年(1682)に久昌寺内に檀林を設け、さらに元禄5年(1692)には別の地に大規模な檀林を増築した。講堂を中心として方丈・玄義寮・板頭寮・主座寮・所化寮などからなる本格的な檀林で、一般のに「水戸三昧堂檀林」と称せられた。
当檀林の初代化主(けしゅ)は、中村檀林の21世日耀(にちよう)上人で、3,000人にも及ぶ学僧を訓育しました。近世日蓮教学の礎を築いた優陀那院日輝上人は、この学僧の一人です。
三昧堂檀林の特徴は、開放的な檀林であることです。他の檀林が他宗徒の勉学を禁じていたのに対し、当檀林ではそれを認めていました。天保14年(1843)に一時中断し、嘉永年間(1848〜54)に再開しましたが、明治になり廃檀となりました。