はじめに
令和8年10月20日に佐賀県小城市にある九州唯一の本山光勝寺の落慶法要に参列いたしました。九州にも日蓮宗の寺院が沢山ありますが本山はこちらの光勝寺のみとは意外でした。今回落慶法要ということで寺観が一新され、立派な堂宇となっていましたが、少し前では「廃寺」と揶揄されるほど老朽化が深刻だったようです。お寺を護り続けることの難しさを実感しました。
改修前の状況

落慶法要








光勝寺の紹介
本覚寺は千葉北部では珍しい潮師法縁のお寺ですが、市川、松戸には法華経寺と縁が深い親師法縁のお寺が数多くあります。そしてこの光勝寺も親師法縁のお寺です。その理由は光勝寺第15世が鍋かむり日親上人であり、この光勝寺が中心となって九州各地に日蓮宗の教線が拡張したという名刹です。ちなみに、令和6年に本覚寺でお参りした京都の本法寺も日親上人ゆかりのお寺です。
「鍋かむり日親」の名で知られる久遠成院日親上人は、19歳という若さで不惜身命の激しい布教を展開し、松尾山第15世・中興の祖として松尾山の周辺をはじめ、博多・大分・熊本・長崎など、九州一円に教線を拡張した。今日、九州など西日本の多くの寺院が開山に日親上人の名を伝えている。
日親上人は『立正治国論』を著して将軍足利義教を諌めたため、将軍の怒りにふれ、一年半の入牢の身となった。
この間、日親上人は目に余る数々の拷問をうけた。灼然の焼鍋を頭に冠せられたが、それにも耐えたことは有名で「死身弘法」の人といえば、すぐ「鍋かむり日親上人」の名があげられる。この光勝寺も上人との縁から「日親さんのお寺」と呼ばれ親しまれている。
日蓮宗全国本山会(2003)『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて』日蓮宗新聞社
光勝寺縁起
文保元年(1317)、下総国(千葉県)千葉胤貞が創立し、開山上人に中山の3世日祐上人を迎えた。千葉胤貞が探題職となり九州へ赴任したとき、上人を師範として筑前(福岡県)に伴った。胤貞は上人の祈りによって大役が無事におさまったことに感謝して、小城の現在地に千葉城を築き、松尾山光勝寺を建立し、上人を開山とした。
千葉市の外護により14世智観院日円上人までは、中山法華経寺と両山一主の制をとっていたが、15代目に専任の住職として初めて久遠成院日親上人を迎えた。
慶長年間(1596〜1615)の18世日乗上人の代に、佐賀藩祖鍋島直茂公が堂宇の朽廃を嘆き、総欅造りで極彩色の十間四面の本堂、九間・十九間の講堂を再建寄進したのが現在のものである。
次いで19世日憶上人には後水尾天皇が帰依され、元和3年(1617)紫衣着用の允許を始め、「護国光勝寺」という勅願を拝領し、勅願寺の指定を受けた。
日蓮宗全国本山会(2003)『日蓮聖人とお弟子たちの歴史を訪ねて』日蓮宗新聞社




